ついでに感想
2001年2月15日 ついでに、今日のNHK「人間ドキュメント」再放送についての感想。
なにやら、「起業家」などという人種が、学生に向けて起業家精神を伝えている、という内容だったようだが・・・私はこの「起業家」なる人種にどうしても嫌悪感を覚えてしまう。
大体、物事に一生懸命打ち込んでいる人を見ると、私はもうダメである。困ったことに。
なぜそんなにも打ち込むことのできる価値があると信じることができるのかー。
社会の「ために」なにかをしたいなどという偽善的な考え。まず、それが真実、正義だという確信はどこから得ているのか。自分の行為の善悪を省みるということを、まず、しない。だから、自分の行為が必ず社会の「為になる」と信じている。ということは、前提として、これが善でこれが悪という価値序列を信じているわけで、そんなの私に押しつけられても、有り難迷惑。自分で決めたいし、私だって自分の決定を誰かに伝いたいとは思うけれど、私の決定こそが総てだ、とはとてもじゃないけど、言えはしない。せいぜい私にできること、正義のためにできること、といえば、私はこう考えますが、みなさんはどう考えますか、と投げかけるくらい。自分の頭で考えていることに対して、どうしてそんなに信頼ができるのか。それが真実だっていう確証はどこから得ているのか。
大体、社会の「ために」自分の生命を投げ出すだけの覚悟もないのに、私は社会の為に何かをやってます、なんて口にだして言うのは恥ずかしい。そんなの、だって、偽善だもの。
何かに打ち込む、という行為ができる、ということ自体が、もう既に価値あること、と見なされる。何かに打ち込むことのできない人間に対する卑下。
社会の見えない壁を感じる。確かに、そんなことを言う人間が増えても、社会は機能しなくなるのだろうけれど。
視野が狭い。大学生なのに、そんな視野の狭いことでよいのか。これが価値?それともこれ?ーせっかくのモラトリアムなのだから、価値自体の探索をしてはいけないのか。将来のためになることだけが、必ずしも価値あることとは、私には思えない。実学ばかりが重視されて、人間の本質を問うような、一見、全く無駄としか思えない学問が必要とされない。経済的価値しか信じちゃいけないのかしら。意味のあることをしないといけないのかしら。本当は意味なんてどこにもないのに、どうしてそんな風に、信じることができるのかしら。もっと大切なこともあるように思う。大学生になる意味は?そんなに実学がしたければ、専門学校へ行けばいい。どうして大学生に、ビジネスをさせたがるのか、アメリカ的。文化や教養はどこに行った?自分の頭で考えて行為する、ということを全然重視してないように思う。結局は、社会の価値の範囲内で行動できる人間を増やしたいのだろうな、と思う。ああ、もっと冒険をさせてくれ、と言いたい。何も変わりはしない。結局は、権力に甘んじて生きるしかないのか。自分を支配する権力に目覚めることはいけないことなのか。冒険をしていては、就職には乗り遅れるのであろう。
自分の行為に対する疑いももたず、他人に影響力のある事柄に打ち込む。(もしくは、他人に影響を与えない行為なんてないのかもしれないが)自分の価値と同じでなければ、卑下する。自分のしていることが一番だと信じる。
私はそういう風には、まだ、なりたくない。
100パーセントの正義なんてない。物事には正の側面と、負の側面が必ずある。もしくは、これが正しくて、これが過ちなんて決めることなんてできない。
なにやら、「起業家」などという人種が、学生に向けて起業家精神を伝えている、という内容だったようだが・・・私はこの「起業家」なる人種にどうしても嫌悪感を覚えてしまう。
大体、物事に一生懸命打ち込んでいる人を見ると、私はもうダメである。困ったことに。
なぜそんなにも打ち込むことのできる価値があると信じることができるのかー。
社会の「ために」なにかをしたいなどという偽善的な考え。まず、それが真実、正義だという確信はどこから得ているのか。自分の行為の善悪を省みるということを、まず、しない。だから、自分の行為が必ず社会の「為になる」と信じている。ということは、前提として、これが善でこれが悪という価値序列を信じているわけで、そんなの私に押しつけられても、有り難迷惑。自分で決めたいし、私だって自分の決定を誰かに伝いたいとは思うけれど、私の決定こそが総てだ、とはとてもじゃないけど、言えはしない。せいぜい私にできること、正義のためにできること、といえば、私はこう考えますが、みなさんはどう考えますか、と投げかけるくらい。自分の頭で考えていることに対して、どうしてそんなに信頼ができるのか。それが真実だっていう確証はどこから得ているのか。
大体、社会の「ために」自分の生命を投げ出すだけの覚悟もないのに、私は社会の為に何かをやってます、なんて口にだして言うのは恥ずかしい。そんなの、だって、偽善だもの。
何かに打ち込む、という行為ができる、ということ自体が、もう既に価値あること、と見なされる。何かに打ち込むことのできない人間に対する卑下。
社会の見えない壁を感じる。確かに、そんなことを言う人間が増えても、社会は機能しなくなるのだろうけれど。
視野が狭い。大学生なのに、そんな視野の狭いことでよいのか。これが価値?それともこれ?ーせっかくのモラトリアムなのだから、価値自体の探索をしてはいけないのか。将来のためになることだけが、必ずしも価値あることとは、私には思えない。実学ばかりが重視されて、人間の本質を問うような、一見、全く無駄としか思えない学問が必要とされない。経済的価値しか信じちゃいけないのかしら。意味のあることをしないといけないのかしら。本当は意味なんてどこにもないのに、どうしてそんな風に、信じることができるのかしら。もっと大切なこともあるように思う。大学生になる意味は?そんなに実学がしたければ、専門学校へ行けばいい。どうして大学生に、ビジネスをさせたがるのか、アメリカ的。文化や教養はどこに行った?自分の頭で考えて行為する、ということを全然重視してないように思う。結局は、社会の価値の範囲内で行動できる人間を増やしたいのだろうな、と思う。ああ、もっと冒険をさせてくれ、と言いたい。何も変わりはしない。結局は、権力に甘んじて生きるしかないのか。自分を支配する権力に目覚めることはいけないことなのか。冒険をしていては、就職には乗り遅れるのであろう。
自分の行為に対する疑いももたず、他人に影響力のある事柄に打ち込む。(もしくは、他人に影響を与えない行為なんてないのかもしれないが)自分の価値と同じでなければ、卑下する。自分のしていることが一番だと信じる。
私はそういう風には、まだ、なりたくない。
100パーセントの正義なんてない。物事には正の側面と、負の側面が必ずある。もしくは、これが正しくて、これが過ちなんて決めることなんてできない。
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